自分を取り戻すために「自己価値観の低下」を知る
自己価値が落ちてしまった要因の中の一部
***
早い人では母親。
「このままでは母に認められない」と感じた自己
・・・もともとの性質として、自分の大切に思っていることと、母親からの指導が異なっている場合
自己価値観が、上がりようもなく、出だしから落ち込んでしまう事がある
子は生物として母親優先の思考がある。
胎児期は「母体が全世界」であり、生命体として母親を愛している。
「自分が母に認められない」という現象を受けると
まるで全世界から否定されたかのような感覚に陥り、自分を落としてしまう
生命体として愛している相手からの否定を受けたという履歴が残り
「私は愛されない人間なんだ」という思い込みも生ずる
私は愛されない。愛されるはずがない。と思い
「愛される価値の無い自分」を元とした人間像を造り上げてしまう。
→自己価値が落ちたまま「愛されたい」と強く願い
DVやモラハラを受けながら「それでも私は愛されているんだ」としがみつく構造を得る人も居る
また別に
自分という存在を落としきってしまうと。
今度は逆に「生存本能」が働き始める事もある
「そんなことは無い!!」という認識が生じ
「親が悪い」「母親が悪い」「自分は悪くない」という主張が生じる
自己価値観が低いのは、すべて周囲のせいとも思うようにもなる
「自己否定と共に他者を否定する思考」を持つ
→すべてに否定的な思考を持つ人となる
愛されるはずのない自分
→愛してくれる人が現れても、愛されるはずがないと思う思考がそれを受け入れない。
自己否定の原点を探していくと「母親」に行きつくことは多い
「自分は母親に否定されてきた」
その想いは黒く、重くのしかかる
親を嫌う自己の主張を強く持つと同時に
落とされ、落ち切った精神は残存し
安定感の欠けた「自信はあるけど、自信が無い」複雑な状態に陥り
「自分は悪くない!」と主張する強さと同時に
「自己否定を持つ」というループ出来上がり
→自己価値観の落ちた「否定的思考」のループから抜け出しにくくなる。
*******************
幼稚園時期に集団活動に入り
「周囲に合わせなければならない」と自分自身に戒めを持ってしまった人も居る
・・・幼少期の集団活動の中「自分の好き勝手をしてはならない」と仕込まれる。
ちょうちょが飛んでいれば、追いかけたいし
ありんこが居れば、いつまでも眺めていたいし
天気が良ければ外で遊びたい
雨が降っていれば雨粒と遊びたい
お遊戯がなんだか分からない。踊りたくないのに、なぜ踊る?
ずっと絵をかいていたいのに、なぜ途中でやめさせる?
ずっとここに居たいのに。なぜ廊下に整列させる?
謎だらけの中に放り込まれ、説明もなく、従わなければならない状況を得る。
・・・「自分の好きなことをしてはいけない」と、制限にハマることを強要される。
好き勝手をしたらいけない
気持ちのままに動いてはならない
そう覚え「自分のままに生きてはいけないんだ」と自然に学び取ってしまう
・・・ちゃんと言う事を聞ける子は「良い子」という認定を受け、誉められる。
良い子は褒められる
自分は「いけない」
「やっちゃいけない事をしちゃう自分はだめだ」
「人に合わせなければいけない」
「自分のままではならないんだ」
「周りに合わせなければいけない(そうでなければ怒られる)」
怒られないために。
人に迷惑を掛けないために。
自分が誉められるために。。
→本来の自分を閉じることを覚えながら育つ。
・・・「良い子」で居れば誉められる
ママにも誉められる
→褒められるにはどうしたら良いか?を学びながら育つ。
ずっと家に居たいけど。ママが幼稚園に行けというから
行かないと怒られるから
だから行く。
・・・幼稚園の昇降口で、母から離れず泣きわめく子の思考は
「ママと一緒に居たい」というだけで泣いている子は多い
先生は「お母さんの姿が見えなければ、普通に遊んでいますよ」と言う。
けれども。。そもそもが幼稚園が嫌いで泣いている訳ではないのだ。
子の心の中は「母から離れた寂しさ」があり
その傷は癒えていないまま、楽しく遊んでいるだけであり。。
傷ついた心は自己価値観を落とす。
そして「集団に馴染むため」に周囲に合わせる思考と資質を備えていく。
→従うことが当たり前と認識するようになり、自分で考える力は削がれていく
***************************
次に現れるのは学童期。10歳くらいの人
学友との交流の中で「ハッ」とした衝撃と共に。「このままではいけないんだ!」という認識が入り
イキイキと自分のままに行動してきた自分を閉じ。『周囲に合わせること』を主軸として選んでしまった人は多い
・・・そのままの自分として生きてきた。
けれども「ハッ」とした衝撃と共に気が付く瞬間がある
自分は、「周囲と違う??」
クラスでの交友。その中で「何か違う」と感じる衝撃
その衝撃から
「自分が悪いのか?」「何か違っているのか」「これはいかん!」と気が付き
周囲に「馴染む」ための行動が生じている
自分のありのままでは在りえないため
周囲に合わせて行動する自分を身に着け
それは本来の自分から見たら「演技」であり
客観的思考を持つ自己の原点から見たら
自分の行動自体が白っちゃけて眺められる
世間への嫌気がさす感覚をうっすらと抱えながら
それでも演技は身に付き。それが自己となり
自分の行動の中心が「周囲に適合した自分」を選んでいるために
中心から省かれた本来の自己は、いつまでも腹の底で押し詰まっている。。
→自分から発する自己否定と、習慣となった「演技する自己」を生きるようになる
普通に生活していて、問題が無いように見えても自己の内側は複雑で、押し込められたような圧迫感が生ずる。
後年、その「押し詰められた感じ」を認識し
自己回帰を模索して、彷徨い始める人は多い
*******
自己価値観が低下している時
人それぞれのパターンがあり
それらの複合や、そのほかの要因が複雑に絡み合っている
本来の自分に還りますように
ありがとうございました
20/06/04
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自己価値が落ちてしまった要因の中の一部
***
早い人では母親。
「このままでは母に認められない」と感じた自己
・・・もともとの性質として、自分の大切に思っていることと、母親からの指導が異なっている場合
自己価値観が、上がりようもなく、出だしから落ち込んでしまう事がある
子は生物として母親優先の思考がある。
胎児期は「母体が全世界」であり、生命体として母親を愛している。
「自分が母に認められない」という現象を受けると
まるで全世界から否定されたかのような感覚に陥り、自分を落としてしまう
生命体として愛している相手からの否定を受けたという履歴が残り
「私は愛されない人間なんだ」という思い込みも生ずる
私は愛されない。愛されるはずがない。と思い
「愛される価値の無い自分」を元とした人間像を造り上げてしまう。
→自己価値が落ちたまま「愛されたい」と強く願い
DVやモラハラを受けながら「それでも私は愛されているんだ」としがみつく構造を得る人も居る
また別に
自分という存在を落としきってしまうと。
今度は逆に「生存本能」が働き始める事もある
「そんなことは無い!!」という認識が生じ
「親が悪い」「母親が悪い」「自分は悪くない」という主張が生じる
自己価値観が低いのは、すべて周囲のせいとも思うようにもなる
「自己否定と共に他者を否定する思考」を持つ
→すべてに否定的な思考を持つ人となる
愛されるはずのない自分
→愛してくれる人が現れても、愛されるはずがないと思う思考がそれを受け入れない。
自己否定の原点を探していくと「母親」に行きつくことは多い
「自分は母親に否定されてきた」
その想いは黒く、重くのしかかる
親を嫌う自己の主張を強く持つと同時に
落とされ、落ち切った精神は残存し
安定感の欠けた「自信はあるけど、自信が無い」複雑な状態に陥り
「自分は悪くない!」と主張する強さと同時に
「自己否定を持つ」というループ出来上がり
→自己価値観の落ちた「否定的思考」のループから抜け出しにくくなる。
*******************
幼稚園時期に集団活動に入り
「周囲に合わせなければならない」と自分自身に戒めを持ってしまった人も居る
・・・幼少期の集団活動の中「自分の好き勝手をしてはならない」と仕込まれる。
ちょうちょが飛んでいれば、追いかけたいし
ありんこが居れば、いつまでも眺めていたいし
天気が良ければ外で遊びたい
雨が降っていれば雨粒と遊びたい
お遊戯がなんだか分からない。踊りたくないのに、なぜ踊る?
ずっと絵をかいていたいのに、なぜ途中でやめさせる?
ずっとここに居たいのに。なぜ廊下に整列させる?
謎だらけの中に放り込まれ、説明もなく、従わなければならない状況を得る。
・・・「自分の好きなことをしてはいけない」と、制限にハマることを強要される。
好き勝手をしたらいけない
気持ちのままに動いてはならない
そう覚え「自分のままに生きてはいけないんだ」と自然に学び取ってしまう
・・・ちゃんと言う事を聞ける子は「良い子」という認定を受け、誉められる。
良い子は褒められる
自分は「いけない」
「やっちゃいけない事をしちゃう自分はだめだ」
「人に合わせなければいけない」
「自分のままではならないんだ」
「周りに合わせなければいけない(そうでなければ怒られる)」
怒られないために。
人に迷惑を掛けないために。
自分が誉められるために。。
→本来の自分を閉じることを覚えながら育つ。
・・・「良い子」で居れば誉められる
ママにも誉められる
→褒められるにはどうしたら良いか?を学びながら育つ。
ずっと家に居たいけど。ママが幼稚園に行けというから
行かないと怒られるから
だから行く。
・・・幼稚園の昇降口で、母から離れず泣きわめく子の思考は
「ママと一緒に居たい」というだけで泣いている子は多い
先生は「お母さんの姿が見えなければ、普通に遊んでいますよ」と言う。
けれども。。そもそもが幼稚園が嫌いで泣いている訳ではないのだ。
子の心の中は「母から離れた寂しさ」があり
その傷は癒えていないまま、楽しく遊んでいるだけであり。。
傷ついた心は自己価値観を落とす。
そして「集団に馴染むため」に周囲に合わせる思考と資質を備えていく。
→従うことが当たり前と認識するようになり、自分で考える力は削がれていく
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次に現れるのは学童期。10歳くらいの人
学友との交流の中で「ハッ」とした衝撃と共に。「このままではいけないんだ!」という認識が入り
イキイキと自分のままに行動してきた自分を閉じ。『周囲に合わせること』を主軸として選んでしまった人は多い
・・・そのままの自分として生きてきた。
けれども「ハッ」とした衝撃と共に気が付く瞬間がある
自分は、「周囲と違う??」
クラスでの交友。その中で「何か違う」と感じる衝撃
その衝撃から
「自分が悪いのか?」「何か違っているのか」「これはいかん!」と気が付き
周囲に「馴染む」ための行動が生じている
自分のありのままでは在りえないため
周囲に合わせて行動する自分を身に着け
それは本来の自分から見たら「演技」であり
客観的思考を持つ自己の原点から見たら
自分の行動自体が白っちゃけて眺められる
世間への嫌気がさす感覚をうっすらと抱えながら
それでも演技は身に付き。それが自己となり
自分の行動の中心が「周囲に適合した自分」を選んでいるために
中心から省かれた本来の自己は、いつまでも腹の底で押し詰まっている。。
→自分から発する自己否定と、習慣となった「演技する自己」を生きるようになる
普通に生活していて、問題が無いように見えても自己の内側は複雑で、押し込められたような圧迫感が生ずる。
後年、その「押し詰められた感じ」を認識し
自己回帰を模索して、彷徨い始める人は多い
*******
自己価値観が低下している時
人それぞれのパターンがあり
それらの複合や、そのほかの要因が複雑に絡み合っている
本来の自分に還りますように
ありがとうございました